
『読書を通じて知ったことは知って終わりではなく、本の主張に対して自分なりの考えを持ち、自分にあった形で生活や仕事に取り込み、人生をより豊かにすることが重要です。』
このようなポリシーに基づき、このページでは本の紹介と要約に加えて、私の感想・考えなどを記しています。
本選びの参考にしてください。
今回紹介する本は、
『ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい』(早川書房)です。
著者は、ドット・ローズ氏になります。
ドット・ローズ氏について ハーバード教育大学院で個性学研究所長を務めている方です。高校を中退後に多くの仕事を転々としたどん底時代を経て、大学を卒業、ハーバード教育大学院で博士号を取得。その後、世界的な研究者になったという異色の経歴です。
本の要約
現代教育では標準化された人間しか育たない。
国語、算数、理解、社会、英語など特定の科目についてのみ教育がなされ、これらの能力や理解度は試験によって評価される。評価は平均に対して上か、下か、平均より上であれば優れており、平均より下であれば劣っている。多数いる人間を評価するにはとても簡単で便利な方法。そういうやり方が深く根付いた現代教育においては標準化された人間しか育たず、特定の分野で天才的な能力を持つ人間は現れにくい。
才能にはばらつきがある。個性が尊重されず天性が埋もれてしまう。
人間たるもの、一人一人、性格、外見、才能は異なる。クローン人間でない限りこの世界に全く同じ人間は存在し得ない。
学校教育の限られた科目で良い点数が取れる人間は優れており、それ以外の分野で能力を持っていても評価されず、自信をなくし排除される。
そんな教育システムでは、個性は尊重されず、天性を社会に活かすことができない。
個性が重視される時代に突入する。教育ではコンピテンシー(優れた能力)を重視すべし。
現代においては個性、いわゆる個人が持つ才能を重視し、成功した企業が現れてきている。そしてそれらの企業は、標準化された人間により構成される企業よりも大きく成長している。
このように個性を重視する企業は、社会では不要とされた人を採用し、個性を尊重し、得意な分野で十分に活躍できる環境を創出できている。そして個性を発揮したことによって得られる成果はとてつもなく大きい。今後もこのような企業が増えていき、一般化していく。
教育ではコンピテンシーを重視する方向にシフトする。学生が必要な単位のみ自由に選択でき、必要なスキルのみ習得できる。スキル習得の証明として大学などは資格証明書を付与する。この資格証明書は個人の能力を証明するものとして、就活などに活用できるといったものだ。世界各国でそのようなシステムが作られており、日本でもMOOCが存在している。
感想
現代の教育に対する不満。今の教育システムは誰のためのもの?
例えば数学において複素数、平方根、微分積分など勉強して大人になって役に立つのか若い頃から疑問だった。そしてその疑問は裏切ることなく、大人になって一度も使うことなく、今となっては私の脳みそから完全に風化してしまった。これらに費やした学習の時間・苦悩はなんだったのか、学ぶべきものが他にあったのではないか、そう思ってしまう。
この本を読んで、なぜ今のような教育システムになってしまったのか、そして理想的な教育システムとは何かを私なりに考えさせられた。
国語という科目は何のためにやるのか。それは活字によって書かれた文章に何が書かれているのか、早く、正確に、深く読み取る読解力を養うためだろう。また、自分の考え、思い、主張を聞き手に訴える、伝えるための文章を作り出す力を養うためだろう。大体そんなところではないだろうか。
では国語の学習の本来の目的と、現代の教育のやり方はマッチングしているのかといえば、答えはNOと言わざるを得ないのではないか。
読解力を養うのであれば多くの本を読書すればそれで足りるのであって、”それ”は何を指すかなどのくだらない問題を解く必要はない。文章を作り出す力を養うのであれば、自作の小説でも書きつづければそれで足りるのではないか。したがって、学校の授業は特に先生が講義する必要もなく、ただ黙々と本を読むのが一番効果的だと思う。
ではなぜ今のような教育になっているのか。それは単に先生方の評価を簡単にするため、入試において能力の判断を容易にするため。これらに尽きるのではないか。純粋に子供の能力を伸ばすシステムではなく、大人が楽するシステムということなのではないか。子供の教育は国力の根本であると思っているが、そろそろ教育改革をする時代に来ているのではないでしょうか。
未来の教育について語る。世界中の学校が科目を提供し、学生は好きな科目、必要な科目を自由に!
小学校、中学校は日本では義務教育という位置付けにあるので、日本という国で社会的な生活を営むための最低限の知識を付与すべきだと思います。そういう観点から見ると、例えば、因数分解、方程式、古文、漢文などは必要なく、マネーリテラシー、税金、料理、法律(民法、刑法、労働基準法など)、安全保障などの科目を作り、深く学習させるべきではないでしょうか。
高校、大学、大学院は特定の学校に所属するという概念自体を無くしてしまうのも良いかと思います。それぞれの高校、大学、大学院が特定の科目を提供し、学生は好きに選んで選択して受講する。科目試験に合格すれば資格証明書を付与し技能があることを証明できるようにする。たとえ高校生の年齢であっても能力と知識があれば大学院の科目も選択でき資格証明書も能力が認められれば付与する。そのような教育システムになれば、学生は自分の将来に必要な知識を必要なレベルまで効率的に取得できるようになるのではないでしょうか。
将来やりたいことが大学生でも決まっていない人が多いと感じています。何となくレベルの高い高校を受験して、何となく理系に進み、何となく大学の専攻分野を選んでいるのではないか。無論私もその一人であるが、それは将来やりたいことを決めていないのではなくて決めることができないからだと思っている。義務教育が終わり、将来なりたい自分をぼんやりと描き出し、主体的に科目を選択して学習していくうちに将来の姿がくっきり見えていき、大人になる頃には明確な将来像を描けるようになるのではないかと思います。
AIと共存するためにも”個性”を磨くことが重要!将来はAIが生み出せないものに価値が宿る。
最近、アメリカのOpen AIという会社が開発したchatGPTが話題になっています。AIが質問に何でも答えてくれ、その回答の精度が凄まじく高いというものです。さらに驚きなのが、答えが一つでないような質問、例えば日本の少子化問題を解決するための政策は?のような質問に対しても、いくつかの有効な選択肢を提供してくれます。私も試しにchatGPTを使用して私の専門分野のとてもマニアックな質問をしたところとても質の高い回答が返ってきました。率直に非常に驚きました。
このようなAIが広く、かつ根深く浸透する社会が近い将来やってくると考えると、今存在する職業の姿も大きく変わると確信を持って言える気がします。例えば、カスタマーセンターのオペレーター、銀行窓口、インフォメーションセンター、コンサルタント、弁護士、裁判官などの職業は一部または大部分がAIに置き換わるのではないだろうか。そのような近未来の社会ではAIを上手く付き合って生きていく必要があり、AIでは代替が難しいと言われる領域で、人間は能力を発揮していかざるを得ないだろう。
確かジュールべヌルが言った名言に「人間が想像できたことは現実になる。」というものがあるが、幼い頃に聞いた時は、想像できても無理なものは無理だろ と思っていたが、大人になった今では全くその通りと言わざるを得ない。現実にそうなっているから仕方がない。AIによって無くなる職業が現時点で可能性として挙がっている以上、近い将来に本当になくなってしまっているだろう。
そのような近未来で人間がAIにはできない能力を発揮して共存するためには、本書が主張する”個性”を尊重する教育は重要と言えるでしょう。学校で問われる問題は最も簡単にAIは答えてしまうのですから、学校で問われる問題を早く正確に解ける能力を持つ人はもはや近い将来必要とされないということです。一人ひとりの個性に目を向け、好きなことは何か、得意なことは何かを探し出し、徹底的にそれを磨き上げる。そして作り上げられたスペシャリストが集まり、AIでは作り出せないものを作り出す。そのようなものが将来において本当に価値のあるものになるだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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